アクティブラーニングを考える

~授業実践や雑感など(亀倉正彦)~

「時間外学習」についての問題意識

※1/27 21:53更新(時間外学習との関わりを補強)

 私が授業時間外の学習(予習・復習・リフレクション・レポートなど)を組み立てるときに常に思い出す対照的な2つの経験がある。その経験をここでは紹介しながら、その意味をまとめてみたい。ここで事例として紹介する科目は、地域社会や産業界と連携してサービスラーニングに前期後期の通年一年間で取り組むものである。発表準備は授業時間外に宿題にして準備してもらうため、(当時は)かなり大きな作業負担を強いる科目であった。


Case1 留学を取りやめた
 この学生は、元々は前期は本授業を受講し、後期は海外留学する予定であった。前期の授業で仲間が出来て、共に苦労する中で、後期もさらに大きな本番イベントを控える中で、この学生は「留学を取りやめる」決断を下した。 理由を尋ねたところ、「(時間外学習も多いし大変だけど)それだけのやりがいがある科目だから(留学で得られるものと天秤に掛けてこの科目を選択した)」と述べた。一般には科目担当として教師冥利に尽きる自慢話に受け取られそうだが、そうではない。「(留学と引き換えにできるほど)立派な何かをこの科目で学んでもらえるのか」と重圧に押し潰されそうになったのである。

Case2 後期から学習意欲が低下した
 この学生は、産業界との連携で企業にも新しい価値を生み出す提案をすることをしたくて受講した。当初から非常に熱心でいつも最初に教室に来るような学生だった。その熱心さのためか、同じチームの学生と話すときは常にケンカ口調で突っかかり、周囲は身を引いてしまった。その結果、学生にとっては物足りないものになったのだろう。また、時間外学習の負担も以前にも増して大きく感じられたのかもしれない。後期になると明らかに学習意欲を失ってきたことが手に取るように分かるようになった。あるとき授業前に吐き捨てるように、だがはっきりと教員にも聞こえるように呟いた。「こんな科目に出るくらいなら資格勉強でもした方がましだ」。

以上の2つのケースからこうして振返ってその意味を以下に3点まとめる。これらのどれもが、今の私が組み立てているアクティブラーニングを考える上で、欠かすことの出来ない重要な意味をもっていると思う。反転学習なる言葉があるが、ますます強く意識せざるを得ない事柄だと思う。

(1)最後は学生自身が決めること
 Case1の学生が卒業してしまって久しい。今こうして振返ってみて、そのときのその学生の決断は本当に正しかったのか、当時はもちろん今でもよく分からない。当人は、当時も今も「最後まで(この科目を)やり抜いてよかった」と言ってくれている(「作業負担が大きいので二度は取りたくない」とも言う)。けれども、海外留学していたら、もっと違う未来が待っていて、そちらのほうが当人のためになったのかも知れないと考えると、もう結論が出ない。最後は学生が決めれば良いことである。だが、その科目が学生の将来に与える影響の大きさを考えると、科目の学びや当人の受講動機についての、本当に大きな責任の「重たさ」を感じずにいられない。

(2)学生の機会利益と機会損失
 もし同じ時間をこの授業でなく、他のことをしていたとしたら、どうなっていただろうかと考えたことはあるだろう。他事により自分にとってもっとプラスがあるならば、今自分が受けている科目受講は「機会損失」をもたらしたことになる(逆もまた然りである)。近年の大学生なら、アルバイトをして生計を立てていることもあるし、あるいは他の科目でもレポート課題が複数でていて逼迫した状況にあるかも知れない。「後悔先に立たず」とはよく言ったものであるが、授業のためとはいえ、時間外学習についていつも悩まされる。

(3)一つの科目で全てを引き受けることはできない
 Case2の学生がまるで弁論部さながらの議論をしてきたとき、「チームで作業に当たるとはどういうことか」について、まだ私自身すらよく分かっていない状態だった。今こうして振返ってみて、今の私なら当時その学生を上手に扱えたかと問われたら、やはり無理だったろう。なぜなら一つの科目でできることには限りがあるからである。この経験が重要な契機になって、後にこの科目で育成する内容を3つに分割して、うち2つはそれぞれ別の科目として独立させることになった。一つは誰もがしっかりと知識習得できる科目であり、もう一つは習得した知識を個人個人が応用しグループとしての議論が機能するような科目である。他の担当者でもチームワークを育成する科目が生まれたし、実践的な科目も増えてきた。今ならその学生を迎えることが出来そうな気がする(上手くいくかは分からないが)。それは「カリキュラム」があるからである。